采女城址(2015年2月)

四日市市の南部、内部川沿いの丘陵地帯に采女(うねめ)城址があります。

四日市市南部です。

四日市市南部です。

次の城郭配置図はこの地図の赤い四角の範囲です。

城郭配置図

城郭配置図

采女城は藤原氏を祖先とする後藤伊勢守基秀が1260年に三重郡采女郷の地頭職に任ぜられ、一族郎党を率いて采女の地に移住し、采女山に築いた城です。
300年あまり後藤家の支配が続きましたが、織田信長によって1568年落城しました。

采女城の由来

采女城の由来

今回歩いたのは、南部丘陵公園に車を置き、公園から尾根伝いに歩き、城跡を通って内部川に降り、再び逆ルートで南部丘陵公園に戻ったのですが、帰りのルート、内部川からのコースを再現します。

内部川沿いの道路から城跡へ登る遊歩道が整備されています。

内部川からの登城口

内部川からの登城口

この登り口のすぐそばに明らかなヌタがありました。
ぬたというのは「魚介類やネギ・ウドなどの野菜を,酢味噌であえた料理」の酢味噌を泥に、魚介類やネギ・ウドをイノシシに置き換えればわかりやすいでしょう。イノシシが皮膚の表面に泥を塗りつける場所です。

イノシシが出没することを表す「ぬた」を見つけた

イノシシが出没することを表す「ぬた」を見つけた

気を取り直して登っていくと、虎口という看板がありました。ここから武者たちが出撃していったとのこと。また守りの拠点でもあります。

虎口(こぐち)=出撃の拠点

虎口(こぐち)=出撃の拠点

虎口の上に 五の郭 があります。この城には九つの郭があったようです。今は平らな土地が残るのみなので、どんな建物が建っていたのかわかりませんが、300年続いた城ですから、それなりに立派な建物があったのだろうと思います。

五の郭

五の郭

郭と郭の間は敵の攻撃を防ぐため狭い道、あるいは橋などで結ばれています。当時はどんな橋が架けられていたのでしょう?

五の郭と一の郭を結ぶ橋

五の郭と一の郭を結ぶ橋

一の郭(本丸)は最も広い場所です。

一の郭(本丸)

一の郭(本丸)

深い井戸があります。転落防止のため格子状に竹を編んで蓋をしてあります。
井戸にまつわる落城の物語の解説板がありました。

井戸解説

井戸解説

飲料水を確保するためかなり深い井戸が作られています。

飲料水を確保するためかなり深い井戸が作られています。

一の郭の北端にちょっと高いスペースがあります。ここに物見櫓があったと推定されています。

物見櫓があったとされる場所

物見櫓があったとされる場所

物見櫓から二の郭へは空堀の縁を歩きます。

空堀

空堀

そして二の郭 どこも同じような平地ですね。どんな建物があったかわかるといいのですが。

二の郭

二の郭

二の郭から本丸の方を振り返ると、物見櫓跡が少し高い。

二の郭から空堀を挟んで物見櫓跡

二の郭から空堀を挟んで物見櫓跡

この城跡で一番高い場所は三の郭です。北側はかなりの急斜面で落ちていきます。

三の郭

三の郭

三の郭から階段のような、そうでないような桟道で降りて、尾根は東へと続いていきます。
その先は南部丘陵公園です。途中にはイノシシが地面を掘り返した跡がたくさんあり、かなり新しいのもあるので緊張します。

三の郭から南部丘陵公園方面への急斜面を降りたところ

三の郭から南部丘陵公園方面への急斜面を降りたところ

歩いて行くと、下の方が削られて枯れている木を何本も見ます。
おそらく鹿などによる食害でしょう。

食害と思われる木

食害と思われる木

今回はパスしましたが、八の郭と四の郭にも遊歩道が付けられているようです。
ぜひそちらへも行ってみようと思います。

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投稿日: 2015年2月9日 | カテゴリー: 公園・庭園, 歴史・史跡 | パーマリンク コメントする.

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