カテゴリー別アーカイブ: 歴史・史跡

王塚古墳(2017/5/5)

王塚古墳というのはあちこちにあるらしい。
福岡県 嘉穂郡 桂川町寿命にある王塚古墳は「5つの色彩で彩られた壁画が石室内ほぼ全面に施されている」(wikipedia)そうだから、素晴らしいものだ。
神戸市 西区にも王塚古墳がある。
三重県では亀山市に能褒野王塚古墳がある。能褒野は「のぼの」と読む。
記紀によれば日本武尊は伊勢国能褒野で死んだとされているので、日本武尊の墓を能褒野墓というらしい。そして亀山の王塚古墳は宮内庁より能褒野墓と認定されている。もちろん実際の被葬者は日本武尊とは考えられず、不明である。
 さて今回私が行ったのは、能褒野王塚古墳からそう遠くない鈴鹿市の王塚古墳だ。

王塚古墳の碑

王塚古墳


王塚古墳

王塚古墳


近隣のいくつかの古墳と共に西ノ野古墳群を構成しその中の最大のものだ。「王塚」というのだから、このあたりを支配し権勢を振るった豪族の墓であろう。それにふさわしい規模を備えている。全長62m、後円部の径は37m、高さは6m、前方部の幅は47m、盾状の周壕、その外に堤もある。6世紀初めのものと見られている。

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采女城址(2015年2月)

四日市市の南部、内部川沿いの丘陵地帯に采女(うねめ)城址があります。

四日市市南部です。

四日市市南部です。

次の城郭配置図はこの地図の赤い四角の範囲です。

城郭配置図

城郭配置図

采女城は藤原氏を祖先とする後藤伊勢守基秀が1260年に三重郡采女郷の地頭職に任ぜられ、一族郎党を率いて采女の地に移住し、采女山に築いた城です。
300年あまり後藤家の支配が続きましたが、織田信長によって1568年落城しました。

采女城の由来

采女城の由来

今回歩いたのは、南部丘陵公園に車を置き、公園から尾根伝いに歩き、城跡を通って内部川に降り、再び逆ルートで南部丘陵公園に戻ったのですが、帰りのルート、内部川からのコースを再現します。

内部川沿いの道路から城跡へ登る遊歩道が整備されています。

内部川からの登城口

内部川からの登城口

この登り口のすぐそばに明らかなヌタがありました。
ぬたというのは「魚介類やネギ・ウドなどの野菜を,酢味噌であえた料理」の酢味噌を泥に、魚介類やネギ・ウドをイノシシに置き換えればわかりやすいでしょう。イノシシが皮膚の表面に泥を塗りつける場所です。

イノシシが出没することを表す「ぬた」を見つけた

イノシシが出没することを表す「ぬた」を見つけた

気を取り直して登っていくと、虎口という看板がありました。ここから武者たちが出撃していったとのこと。また守りの拠点でもあります。

虎口(こぐち)=出撃の拠点

虎口(こぐち)=出撃の拠点

虎口の上に 五の郭 があります。この城には九つの郭があったようです。今は平らな土地が残るのみなので、どんな建物が建っていたのかわかりませんが、300年続いた城ですから、それなりに立派な建物があったのだろうと思います。

五の郭

五の郭

郭と郭の間は敵の攻撃を防ぐため狭い道、あるいは橋などで結ばれています。当時はどんな橋が架けられていたのでしょう?

五の郭と一の郭を結ぶ橋

五の郭と一の郭を結ぶ橋

一の郭(本丸)は最も広い場所です。

一の郭(本丸)

一の郭(本丸)

深い井戸があります。転落防止のため格子状に竹を編んで蓋をしてあります。
井戸にまつわる落城の物語の解説板がありました。

井戸解説

井戸解説

飲料水を確保するためかなり深い井戸が作られています。

飲料水を確保するためかなり深い井戸が作られています。

一の郭の北端にちょっと高いスペースがあります。ここに物見櫓があったと推定されています。

物見櫓があったとされる場所

物見櫓があったとされる場所

物見櫓から二の郭へは空堀の縁を歩きます。

空堀

空堀

そして二の郭 どこも同じような平地ですね。どんな建物があったかわかるといいのですが。

二の郭

二の郭

二の郭から本丸の方を振り返ると、物見櫓跡が少し高い。

二の郭から空堀を挟んで物見櫓跡

二の郭から空堀を挟んで物見櫓跡

この城跡で一番高い場所は三の郭です。北側はかなりの急斜面で落ちていきます。

三の郭

三の郭

三の郭から階段のような、そうでないような桟道で降りて、尾根は東へと続いていきます。
その先は南部丘陵公園です。途中にはイノシシが地面を掘り返した跡がたくさんあり、かなり新しいのもあるので緊張します。

三の郭から南部丘陵公園方面への急斜面を降りたところ

三の郭から南部丘陵公園方面への急斜面を降りたところ

歩いて行くと、下の方が削られて枯れている木を何本も見ます。
おそらく鹿などによる食害でしょう。

食害と思われる木

食害と思われる木

今回はパスしましたが、八の郭と四の郭にも遊歩道が付けられているようです。
ぜひそちらへも行ってみようと思います。

断夫山古墳

名古屋学院大学の横を流れる堀川、その対岸に断夫山(だんぷさん・だんぷやま)古墳がある。

名古屋学院大学白鳥キャンパスから

名古屋学院大学白鳥キャンパスから

 

東海地方最大の前方後円墳だそうで、全長151m、墳丘の高さは16mある。
伝説では日本武尊の妻となった宮簀媛or美夜受比売(みやずひめ)とされている。
すぐ近くに白鳥古墳があり、三重県で没した日本武尊が白鳥となって舞い降りたという伝説から、日本武尊の墓とも言われてきた(三重県には日本武尊の墓とされる古墳がいくつもあるらしい)が、全長70mばかりと、妻である宮簀媛の墓である断夫山古墳の半分ほどである。

現在では、どちらもこの地方の豪族尾張氏のものと考えられている。
宮簀媛は、尾張氏11代目で尾張国造となった乎止与命の娘だから宮簀媛の墓としても尾張氏の墓には違いないのだが、時代が違うだろう。

この古墳は熱田公園内にあって、野球場やグラウンドもある。しかし古墳は立入禁止だと思っていた。近くにある白鳥古墳は立入禁止になっているので同様だと思っていたのだ。
ところが先日、周濠の一個所に渡るための通路が設けられていて、入れるようになっているのを発見(何年もここを歩いているのに!)した。

断婦山古墳入口

断婦山古墳入口

入れるとわかったらすぐに実行。講義の帰りであるにもかかわらず、パソコンの入ったバッグを抱えて登り始めた。
ちなみに入口の場所は駐車場と管理事務所の間、古墳の形で言えば、後円の末端部にある。
後円部は高さ13m、ここからいったん下って前方部へ上っていく。

断夫山古墳後円部頂上

後円部の頂上付近

出会ったもの、白猫一匹、人間のカップル一組。
ちょっと下って行ったところにこんな木もあった。

こういう木があると幽玄さを感じますね

こういう木があると幽玄さを感じますね

前方部は高さ16.2mだそうで、3mほどの違いは結構大きい。
ただ全体が鬱蒼とした木に覆われているので展望は全くない。展望がない方がいいのかもしれない。
今来た道を振り返る。

前方部から後円部を見る。

前方部から後円部を見る。

次の写真は、前方部と後円部の間の一番低いあたりから後円部を見る。
130507_133926市内にありながら深山の雰囲気を味わえる貴重な場所だった。
鳥もたくさんいるが、種類などはわからない。声は聞こえても姿はなかなか見えない。

いなべ + 安土城

ミヤマカワトンボ

東藤原駅近くで出会ったミヤマカワトンボ

月曜日は久しぶりにドライブしました。
最初に考えたことは、「山を歩きたい!」で、恵那山の近くの富士見台。中央高速の恵那山トンネルの上です。
次に「ワラビを採りたい」。富士見台はワラビが全然ありません。
三 重と滋賀を結ぶ国道306号の鞍掛峠下の高圧線鉄塔付近にワラビがたくさんあったのを思い出して、そちらに車を走らせました。藤原岳周辺と西藤原駅の写真 を撮りながら306号へ行くと、通行止め。
そこで421号線に変更しましたが、石榑峠のはるか下の方をトンネルで通過するようになったため、すーっと滋賀 県へ。
そこで、ふっと思いついたのは、友達が時々安土城跡で仕事をしているらしいということ。そこで安土城跡へ。
友達はいなかったけど、久しぶりに山を歩きました。

西藤原
安土城

桑名の二つの建物

国道1号線を走って行くと、桑名市の中心部だけ道が広くなっている。
名古屋方向から桑名市街を通り、再び道が狭くなるところ、矢田町というところだが、

国道を挟んで左右対称に建物が建っている。
左側(海側)は「お菓子処 和」、右側(山側)は「呉服の にし眞」という店だ。

にし眞は立て直して新しい建物だが、国道に面した部分だけは古い建物を残している。
この二つの建物のいわれがどこかにないかと検索してみたのだが、見当たらない。

(旧)西中金駅

(西中金駅については「電車の来ない駅」というタイトルで、2006年10月に書きました。またその時の写真は SkyDriveの「電車の来ない駅」にあります。当時のWindows live Spacesはブログとアルバムを同一画面に配置できたので、ブログでは文章のみを書いていました。そのブログがWindows liveから切り離されてWordPressに移行したのです。)

Nishi-Nkagane station

車止めから西中金駅を望む

名鉄三河線のいわゆる山線は現在は猿投までだが、かつては西中金が終点だった。
猿投-西中金は、1985年には電車をやめてレールバス(ディーゼル車)に変更、そして2004年には廃線となった。
私が名古屋に来たのは1996年なので知立まで電車が通っていた頃は知らないが、レールバスは見たことがある。
Nishi-Nakagane station 2
西中金駅からさらに足助方面へずっと先まで鉄道の路盤と思われる狭い道が続いており、それを廃止された線路跡と思っていたのだが、作りかけでやめてしまった未成線だった。
それも第二次大戦前にかなりできていたのに、レールを供出してしまったそうだ。足助には香嵐渓という観光地があり、紅葉の季節には、西中金から足助への道は大渋滞する。
鉄道が通っていたら渋滞なしに行けるのだが、平日は客がいないのだろう。残念なことだ。

Nishi-Nakagane Station 3

駅舎

猿投-西中金が廃止されて3年後の2007年、三河広瀬駅と西中金駅の駅舎が国の登録有形文化財となった。
文化財とはなったが、この現状はちょっと寂しい。
切符売り場や時刻表などは復活できないものだろうか。

Nishi-Nakagane Station 4

駅舎内部

最後に駅舎内にあった(掲げてあるというより置いてあった)説明版です。
三河鉄道から始まる三河(山)線の歴史が記されています。

Nishi-Nakagane Station 5

猿投-西中金間の鉄道の歴史

色金山(2012年2月18日)

この記事に関するフォトアルバム
https://skydrive.live.com/redir.aspx?cid=ce426d45a8dc6b73&resid=CE426D45A8DC6B73!1942&parid=root

長久手市にある病院へお見舞いに行った帰りに色金山歴史公園に寄った。
2度目である。前回(2007年8月24日)のURLは

https://agioski.wordpress.com/2007/08/25/2007年8月24日 色金山歴史公園/

色金山は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、長久手での合戦の際に徳川家康が陣を置いた場所である。

山中城跡(2009年2月3日)

湯河原での会議の帰り道、箱根から三島へ下る途中で山中城跡に立ち寄った。

アルバムは http://cid-ce426d45a8dc6b73.skydrive.live.com/browse.aspx/.res/ce426d45a8dc6b73!1246?ct=photos

この城は、永禄年間に北条氏康が築城したもので、三島市が調査に基づいて復元し、北条氏の独特な築城法がよく見られる。

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

案内図の右が城の本体、左下に出丸があり、その間を旧東海道と現在の国道1号線が通っている。

01sannomarubori_s

上り側駐車場から三の丸堀に沿って歩く。

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田尻の池

このすぐ隣に箱井戸という池がある。

この両者は山城にとって貴重な水源だったのだろうと思う。

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田尻の池と箱井戸の間を二の丸に向かって上っていくと、このように盛土の切れ目から入っていく。このような盛土が至る所にあって、山の中の築城の苦労が忍ばれる。

04ninomarubashi_s 二の丸に架けられた橋。

遺構を残すため、本来の位置よりも上に架けられている。

他の橋もそうだが、欄干などなかったのではあるまいか。今は事故防止のため必要だろうが。

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二の丸。ここがこの城で一番広い場所だそうだ。

しかし、傾斜している。

この城には傾斜していない所はないと言っていい。

06honmarubori_s 二の丸と本丸を結ぶ橋だが、本当はこんなに立派な橋ではなかったようだ。

二の丸と本丸の間は堀で隔てられているのだが、堀の二の丸側には幅30~60センチの犬走りが設けられている。

写真の部分は土橋で本丸とつながっている部分なのだが、犬走りの分だけ土橋が切られているので、せいぜい1mぐらいの簡易な橋が渡されていたのかもしれない。
現代の観光客の安全上このような立派な橋を架けたそうである。

07honmaru_s 本丸は二の丸に比べてかなり狭い。

写真撮影位置の後方右にさらに狭い天守閣跡がある。

天守閣というよりは、櫓というべきか。

08kitanomaru_s

本丸の奥に杉木立に囲まれて北の丸がある。

昔はこんな植林はなかったろうから、だいぶ雰囲気は違っただろうと思う。

ちなみに、あちこち芝が張ってあるのは、史跡保護のためだ。

09nishinomaru_s 西の丸の西端にある物見台から振り返って西の丸全景を見ている。

二の丸に次いで広い場所か。

景色も良い。

10nishiyagura_s

西櫓。

西の丸から堀を隔てた向こうにあるが、行こうと思うとちょっと遠い。

このようにツツジがたくさん植えてあるので、季節に来ればきれいだろう。

11unebori_s 畝堀と呼ぶらしい。

傾斜地の堀に何カ所も区切りを入れることによって、水をためて飲料水を確保したのだ。

写真の右側が西の丸。

西櫓へはこの堀の左側を通っていく。

12shojibori_s

障子堀。

堀がいくつもに区画されており、区画の一つからは湧き水が出ている。

貴重な水源だ。

平城にはない知恵だろう。

13panorama_s

西木戸と北の丸を結ぶ北側の通路からは愛鷹連峰や富士山がきれいに見えることになっている。

残念ながらこの日は富士山は全く見えなかった。

14uso_s 西の丸と堀を隔てた北側にある休憩所にいたら、口笛のような鳥の声が聞こえた。

見ると頭が黒、首がオレンジの鳥が2羽。

ウソという鳥。口笛のことをウソというのだ。

「うそぶく」は口笛を吹く時の口の形から来た言葉。

それにしても、一見して鳥の名前を思い出した自分を偉いと思った。

15oak&shrines_s 樹齢600年の大カシと神社。

右が八坂神社、左は駒形神社と諏訪神社の合体。

この簡単な造りもさることながら、なぜ一つの社殿を共有しているのだろう。

そして、なぜ八坂神社は別棟なんだろう?

15shrine_s こんな具合に看板が二つ掛かっています。

16-2tombs_s三の丸跡には宗閑寺が建っている。

ここには天正18年3月27日この城が落城した合戦で討死した北条方の武将と豊臣方の武将が仲良く葬られています。

正面の大きな白っぽいのが、豊臣軍の先鋒、一柳直末(大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門)。

左の方に城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、

16-4tomb_s

手前左端には北条方の武将、多米長定・長谷川近秀・追沼氏雅の墓。

これはそのうちの長谷川近秀のもの。

天正十八庚寅年三月二十七日
長谷川志摩守平近秀
於山中城討死

19hori_s

国道1号線を挟んで出丸が設けられている。

これは豊臣方の攻撃に備えて新設されたらしい。その縁に造られた堀。

この下の方に旧東海道があります。

2007年8月24日 色金山歴史公園

長久手町の色金山へ行った。
小牧・長久手の戦いの長久手だ。 この周辺は史跡やそれにちなむものがいっぱいある。
「岩崎城址公園」、「古戦場公園」、「御旗山」、「血の池公園」などというのもある。
天正12年4月、家康は小牧山で秀吉とにらみ合っていたが、秀吉の別動隊が岡崎奇襲を企てた。
それを追って家康は4月8日夜、小牧山を出て9日朝、色金山に着いた。この山頂に金扇の馬印を立て軍議を巡らした。
そのときに家康が座ったとされる石がある。
展望台には「家康隊進軍の図」「家康軍議の図」というレリーフがある。
また、小牧長久手の戦いで死んだ者達を供養する碑などがあちこちにある。戦死した伴若狭守の弟の子孫がずっと後に建てた墓碑もある。
なんと大東亜戦争の戦没者を慰霊する碑まである。
ユリがたくさん咲いていた。
ツクツクホウシが鳴いていた。
まだまだ暑いが、秋の虫が待ちきれずに鳴きだしている。
このブログやアルバムへのコメントはログインしないと書けません。
そこで別のサイトにBBSを用意しました。
コメントいただければ嬉しいです。
2012年2月19日追記:
アルバムはWindows Live SlyDrive に移っています。

6月11日沓掛城址

昨日、豊明で読書会をした。行きがけにちょっと沓掛城址公園に寄った。
この城今川義元が桶狭間の合戦の前に泊まった城だ。
奇しくもそれは永禄3年(1560年)5月18日(新暦で言うと6月11日)のことだった。
翌19日(新暦6月12日)桶狭間で戦死する。
城は関ヶ原の合戦の後、廃城になった。
その後は畑になってしまっていた。
城址公園といっても単に堀や本丸や郭などの地形的な遺構を掘り起こしただけである。
 建物はない。
堀には、花菖蒲、杜若が植えられていた。
女性が一人、よく通る声で詩吟?浪曲?の練習をしていた。